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候文  (くずし字解説文とセットです)   くずし字本文へ                 トップへ戻る

江戸時代には、公文書・実用文などのほとんどを、この「候文」文体が占めた。

文書の種類
        1、幕政関係・藩政関係の公的文書
        2、農村・漁村・都市関係文書    
              
3、産業・交通・商業・貿易関係文書
以上のような、ほとんどあらゆる分野にわたって、下達・上申・互通(1)の関係にある文書が、「候文」の形で存在する。(2)

江戸期の「候文」の特徴は、使われる文字と文体である。何らかの目的を持って、相手に自分の意志を伝えるために書かれたものが多い。使われる文字は、漢字の行草書・異体字・変体仮名・行草書の漢文の助辞・ひらがな・カタカナ・合字など。(「くずし字本文」参照)

文体の特徴は、日本語の語順で語彙が並ぶ文章に、漢文に由来する定型の「返し読み」を混ぜて書かれたことである。文末に「候」を使うので「候文」の名がある。濁点・句読点はない。

返読文字の例  助動詞では、如(ごとし)、不(ず)、為(す・さす・たり)、令(しむ)、可(べし)、被(る・らる)など。動詞、助詞、その他もある。

戦後の国語改革ですべて「ひらがな」で表記することになった、接続詞・副詞・代名詞・助動詞などの多くが、漢字またはその略体(「候」を点・簡略記号ですませる)で表記される。

接続詞 「あるいは」(或者)、「しかれば」(然者)、「なおまた」(尚又)、「もっとも」(尤)、「または」(又者)など

副詞 「いささか」(聊)、「いまもって」(今以)、「いよいよ」(弥)、「かねて」(兼而)、「もし」(若)など

代名詞 「この」(此)、「これ」(之・是)、「その」(其)、「それ」(夫)など

助動詞 「そうろう」(候)、「なり」(也)、如(ごとし)、不(ず)、為(す・さす・たり)、令(しむ)、可(べし)、被(る・らる)など(3)

「送り仮名・助詞に該当する部分」に変体仮名(漢字行草書含む)・平仮名・カタカナ・合字、さらには行草書の漢文助辞が使われるが、公式文書に近いほど、仮名部分がなく、漢文調である。さらには書き手や文書の性質によって、漢字と仮名などの使い方はまちまちである。また女性手紙に仮名使用が多いのはもちろんだが、男性でも、私的文書・内輪向けの文書は、仮名が多い傾向が認められる。(4)

行政司法などの公式文書以外に、書状・商用文・記録・日記・証文・関所手形・宗門手形・共同生活に関わる文書にいたるまで、かなりの文献がこの「候文」様式である。普段使っている話し言葉に関係なく、書く文章に使われた文語文は、方言による意思疎通の困難を克服するという意味では、非常に便利に使われた全国的様式だった。 (5)

(幕末の文例・皇女和宮降嫁の際の村々廻状)(6)

和宮様御下向之説宿継人馬多入間左之村々中山道浦和宿江富分助郷申付候条問屋方より(よりは「かな」でなく合字)相觸次第人馬 遅参不致無滞差出し相勤可申候尤富時年季休役御用ニ限り是又相勤可申者也 右村々 文久元年(1861年)

(書き下し文) 和宮様御下向之説、宿継人馬多く入る間、左の村々中山道浦和宿へ当分助郷申し付け候条、問屋方より相触れ次第、人馬遅参致さず滞りなく差し出し相勤め申すべく候、もっとも当時年季休役、御用に限り、これまた相勤め申すべきものなり。

明治時代にも書簡体として用いられたが、言文一致体の普及や古文教育で取り上げられなかったことなどから廃れた。


脚注

1.)       浅井潤子編『暮らしの中の古文書』吉川弘文館
2.)     荒井英次編『近世の古文書』小宮山書店昭和44
3).      林英夫監修『おさらい古文書の基礎・文例と語彙』柏書房
4).      日本歴史学会編『演習古文書選』吉川弘文館
5)      「方言と候文」に関しては五十嵐力他監修『手紙講座第1巻』平凡社、昭和10年 より。
言文一致運動からきた口語体に対して、昔の「候文」の由来を懐古する文である。
「江戸時代の自由交通厳禁のために、地形上すでにあまたの方言があったところへさらに拍車がかかり、他藩人相互間では南蛮鴃舌(なんばんげきぜつ)としか聞こえない方言が多くなった。その結果他藩の人士との談話がほとんど不通になり、江戸詰めの際などにはどうにもならないという結果になった。そこで当時士人の間に流行していた謡曲(鎌倉時代の文)詞章や、全国的に普及していた往来物などの口調を借りて用を足したことから、発生し、慣用し来たったものが、候文体である。戊辰の役に、薩摩人が会津城を攻めた時、道案内にと呼び出した神官との間に、どうしても話が通じない。思案の末、謡曲のことを思い出し、シテとワキとの掛け合いよろしく問答を進め、やっとうまく行ったという逸話がある。(後の西南戦争の有名人、桐野利秋の話だそうだ)」(南蛮鴃舌=外国人や鳥の「もず」の鳴き声、転じて外国人のわからない言語)

(6)吉田豊編『大奥激震録』柏書房